G黷ェ|フ忍句

May 2151997

 皮を脱ぐ音静かなり竹の奥

                           如 洋

頃の竹林に入ると、竹の皮の落ちる音がしているはずだ。「はらり」でもなく「ばさり」でもなく、その中間の微妙なかそけき音。小学生の頃には、よく真竹の皮をひろいに行った。おにぎりなど、いろいろな物を包むのに使うためだ。都会では、肉屋さんの必需品でもあった。まさにこの句の言うとおりで、ときおり皮を脱ぎ落とす音がすると、子供心にも神秘的な感じを受けたものである。加えて、土のしめった感触や匂いなどにも……。ところで、私がいま住んでいる東京の三鷹は、埼玉の所沢と並んで、関東地方の細工用の竹の一大産地だったそうである。昨日の放送スタジオで、コミュニティセンターで「竹とんぼ」教室を開いているゲストの方からうかがった話だ。なお、竹の皮の品質のよさでは、なんといっても京都嵯峨野産が有名である。いや、有名であった。(清水哲男)


May 2252007

 竹皮を脱ぎて乳もなし臍もなし

                           鈴木鷹夫

や竹林は大昔から日本にあった景色だと思い込んでいたが、平安時代にはごく珍しいものだったようだ。箒や籠などの竹細工の技術は山の民によって伝承され、時間をかけて暮らしに欠くことのできない生活用品となった。また希少であった時代から、成長の早さや生命力、空洞になっている形状などから、竹には神秘的な霊力があると信じられてきたという。実際、初夏の光が幾筋も天上から差し込む竹林のなかで、ごわごわと和毛に包まれた筍が土に近い節から順に皮を脱ぎ、青々とした若竹となる様子は他の樹木などには見られない美しい過程だろう。狂おしいほど一途に竹が伸びる様子は、萩原朔太郎の作品『竹』にまかせるとして、掲句は滑らかな竹の幹を前に、乳房や臍を探すというきわめて俗な視線を持ってきている。これにはもちろん竹取物語の「筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人いと美しうて居たり」を意識し、かぐや姫の十二単を脱がせるようなエロティックな想像をかきたてる。古来より人々が竹に抱いている清らかな幻想を裏切るような一句であるが、作者の諧謔は〈今生は手足を我慢かたつむり〉〈吊されし鮟鱇何か着せてやれ〉にも見られるように、くすりと微笑させたのちであるからこその、消えぬ火種のような切なさが埋め込まれている。『千年』(2004)所収。(土肥あき子)


May 2352011

 夕わけて竹の皮散る酒の中

                           清水基吉

は静かに飲むべかりけり。日本酒が飲めない私でも、こういう句を読むと、しみじみとそんな気がしてくる。薄暮の庭でも眺めながら、ひとり静かに飲んでいるのだろう。実際に竹が見えているのかどうかはわからない。見えていないとすれば、竹が皮を脱ぐときにはかすかな音がするので、それとわかるのだ。よほど静かな場所でないと聞こえないから、音が聞こえていると解したほうが、より情趣が濃くなる。夕暮れの淡い光のなかで時折はらりと竹の皮が散るさまは、それだけでも作者の孤独感を写し出しているように思われるが、散った皮がはらりはらりと「酒の中」へ、つまり少し酔った状態のなかへと散りかかるというのだから、寂しくも陶然とした作者の心持ちが表されている。孤独の愉しさ……。酒飲みのロマンチシズムもここに極まった、そんなおもむきのある句だ。『俳句歳時記・夏の部』(1955・角川書店)所載。(清水哲男)




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